
人類と、ゴリラなどの類人猿を分つ最大の特徴は、その版図の大きさにある。アフリカで生まれた我々の祖先は約10万年前から世界に拡散した。それは生存のための移動であったが、同時に、好奇心によって導かれるものでもあっただろう。新天地の探索や、他地域との交流・交易は、移動や環境適応のための発明を促し、新たな知識の獲得と伝播の機会をもたらしてくれた。自分たちのテリトリーに留まり、安定した環境を好む類人猿とは異なり、積極的に移動しながら知識を獲得していく性質は人類特有のものだろう。
こうした「移動」という行為は、産業革命に伴う交通手段の発展に合わせ、それを通じた楽しみに重きを置く「観光」として産業化されていった。観光産業は、経済成長やLCCの登場、デジタル技術の進化等を背景に成長を続け、世界の国際観光客数は2024年に約14億人にまで到達した。日本でも、2000年頃に500万人程度であった訪日外国人旅行者数は増加を続け、パンデミックによる一時的減少はあったものの、2024年に3600万人を超えたと報告されている。観光客の増加は、観光地に経済的な恩恵をもたらす一方、交通機関の混雑、騒音、ごみ問題、そして外来種の持ち込みと生態系の撹乱をもたらした。観光を満喫する人類は、こうした負の側面とどう向き合うかが問われている。
少子高齢化や地方の過疎化が加速するなか、観光庁は、地域の再生・活性化の切り札として、観光立国の推進を担ってきた。2019年には、旅行者と観光地の摩擦を解消し「住んでよし、訪れてよし」の観光地域づくりを推進するため、「日本版持続可能な観光ガイドライン(JSTS-D)」の開発に着手している。これは客観的なデータに基づき、観光客と地域住民の双方に配慮した観光地マネジメントを行えるよう策定されたものである。この策定に向けた委員会の座長を務めたのが、和歌山大学の加藤久美氏だ。
「従来、観光の成功は『来訪者数』や『経済効果』によって測られてきましたが、地域社会や環境へのプラス、マイナスの影響も十分に考慮する必要があります」と加藤氏は語る。この観点からJSTS-Dには、持続可能な観光地づくりを進めるための評価基準として、「1.持続可能なマネジメント、2.社会経済のサステナビリティ、3.文化的サステナビリティ、4.環境のサステナビリティ」という4つの分野に対する47項目の評価指標が設けられた。
項目の中には、観光地への直接・間接的な経済波及効果はもちろん、文化遺産の保護や外来種の流入に関する対策の基本的な考え方が含まれている。また、旅行者の行動が適切に管理され、そのための人材や施策が存在するかといった、観光が地域住民にとって望ましい在り方に向かうための手立ても示された。
さらに、JSTS-Dは、地域ごとの強みや課題を明確にして、持続可能な観光を実践するための「アイデア集」としても機能するように作られている。この背景には「どうすれば地域が観光によって、自分たちの価値を高め続け、『力』を得ていくことができるかを考え続けてきました」と語る、加藤氏の研究姿勢がある。


「観光とは、文字通り国の光を見出して磨くことで、幸せを作り出す行いです。旅行者と訪問先が関わる中で、プラスの影響を享受できるあり方を模索し続けていくことが重要で、その基盤となる考えが『リジェネラティブ』です」と加藤氏は語る。このリジェネラティブな観光を成立させる要素として、「訪問者の内面的な再生」や「訪れた土地で得たものを、訪問者が故郷で活かすこと」をはじめ、「訪問地が得る経済的な恩恵」や「地域の文化的・環境的価値の再認識」が重要視されると加藤氏は語る。
リジェネラティブな観光を通じて、訪問者は自己を再生していく。加藤氏は毎年、学生と共に熊野古道を巡る旅を行うが、学生は約50キロの道のりを歩くというチャレンジや規則正しい生活を通し「自然の中での自己回復」を体感し「生まれ変わったような気がする」と感想を述べるそうだ。これはまさに、旅が人を再生させる体験のひとつである。
一方で訪問先は、訪問者の視点を通じて自己の魅力を再認識し、誇りや自信を育むことができる。加藤氏は「地域の再生に取り組む時には、文化の根本となる風習や、その土地で共有されている価値観を見直していくことが重要です」と語る。例えば、福島県飯舘村の山津見神社にはオオカミの天井絵があったが、火災で焼失してしまった。これを加藤氏が東京藝術大学の研究室の協力を得て復元すると、村民の方々は「オオカミがこの地に戻った」ことで、天井絵が村の宝であることが再認識されて、村の文化的アイデンティティが強化され、復興を支える一つの力となった。
リジェネラティブな観光を成立させるには、訪問者・事業者・住民・行政が共に価値観を共有する仕組みが必要で、「関係者同士をつなぐ『観光のプロ』を育成し、地域と訪問者の関わりが好循環を生むように働きかけていく必要があります」と加藤氏は強調する。この価値観のもと、大学では各地から集まる学生を育成している。
観光は単なる経済活動ではない。人が主要な資源となる産業であり、地域と観光客が相互に影響を与えながら成長する営みである。ゆえに人類は、観光の在り方を見直すことで、自らや訪問先となる地域の経済と文化を再生させる、新たな移動の在り方を体得していくことであろう。
(文・石尾 淳一郎)
※当記事は「研究応援 vol.37」(リバネス出版、2025年3月発行)より引用しています。

専門 観光学
〈研究テーマ〉リジェネラティブ論に基づく
デスティネーション・ウェルビーング評価モデル構築と実践
和歌山大学観光学部観光学科教授。武蔵野大学しあわせ研究所教授。豪クイーンズランド大学客員教授。PATA理事。ISARC50(国際観光)共同代表。Sustainability Institute代表。クイーンズランド大学卒(PhD)。観光庁持続可能な観光ガイドライン策定委員会座長。中央環境審議会(令和の里海、良好な環境など)で委員を務め、多方面にわたり持続可能な観光推進に関わる。